ライシャワーの見た日本⑤

30/09/2019

 昨今の日本では、従来日本人が持っていた倫理観・美的感覚からは想像も出来ないような事態が頻発している。社会規範が或いは常識が、悲しい位に機能していないように思える。

 何が崩れていて、何に希望を求めれば良いのか、誰もが深刻に考えなければ日本社会は崩壊してしまう。

 日本人が劣化したと言われるが、何が劣化したのか、本来あるべき日本人像とは何なのか。駐米大使であったライシャワー博士の著書「ライシャワーの見た日本」から、終戦直後の日本人の行動様式が、米国人にどのように見えていたのか再確認したい。

 著書の目次に沿って、その要約と自分の考察を記すところである。

要約

第三部 日本人の性格

第七章 情緒と同調性

第四節 社会的同調性

 日本人は、その歴史の初期には朝鮮人と似ていたし、朝鮮人は現在でも人種的・文化的に他の如何なる民族よりも日本人に近いところに位置しているのである。誰しも朝鮮人が情緒的であることは認めるであろう。彼らは、移り気な、ときには無秩序といってよいほど無遠慮な個人主義者である。日本人と朝鮮人の対照は、かなり最近に起因すると言えよう。日本人もまた、歴史の殆どにおいて十六、七世紀頃にいたるまで、明らかに情緒的で抑制を知らぬ民族であったようである。十六世紀のポルトガル人やスペイン人は、日本人が感情的に抑圧されていたり、ヨーロッパ人よりも同調性の傾向が強いとは考えていなかった。徳川時代の安定と平和の二世紀にわたって民衆は圧政的体制の厳しく、油断のない監視のもとで互いに隣り合って生活していた。徳川期は日本における儒教の黄金時代である。厳格で油断のない政府が支援していた儒教的な行動規範を意識的に強調することによって強化された。日本人は、礼儀にはやかましい民族である。状況が変わるごとに、正確に規定された言葉使いが要求される。より個人主義的な概念をもち、重くみる我々にとっては、かくも頑なに規則を固守することは些か滑稽にみえる。徳川末期の激しい排外感情は、ひとたび日本人が外部の世界は最早遠ざけられないと確信すると、一夜にして西洋から学ぶことに対する熱狂的な熱意に一変した。指導者が規則に従ってとなるとッ状況は変わった。自殺的な抵抗には、最早少しも徳はなかった。今や、アメリカ人に対して親善と哀心からの協力を示すのが責務であった。正当な怒りをもって、「夢中になって戦って」きた我々には理解出来ないことであった。日本人の状況的倫理は、我々の個人主義的な行為の規範よりも摩擦と緊張が少ないので通常の場合は十分うまく機能する。予期しないものに、ぶつかると、日本人を指針のない本能に後戻りさせ、我々の普遍的な倫理以上に完全に崩壊してしまうように見えるのである。

自分の考察

 少なくとも日本のお上は、高度成長期の輸出立国を目指し、その中身が原発である。まさに噴飯ものである。更には、国の方向性を見出すどころか排外主義に走っている。Japan as No1と言われて有頂天になった頃も、次の方向性が必要だと分かっていたはずである。問題は先送りされたのである。バブルの頃の残滓に縋って生きるのは止めよう。

 自らの正義・良心に従って、もっと素直に生きる。強欲資本主義は早晩崩壊する、それを待っていても仕方がない、今出来ることは何か、考えずに身を委ね、ついていける思想も経済も存在しない。

 自立した国家の前に、貧しくとも、自由で自立した個人を創造したいものである。日本人の過度な同質性は無用の長物と心得よう。 


 ご意見等頂ければ、有り難く存じます。

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